ちいさないのち2006年06月01日 10時55分17秒

mixiやGREEに日記を書くうちに、
だんだん、このブログから遠ざかってしまいました。
半年近くのブランクです。

実は、
書き込むためのパスワードを忘れてしまっていたのです。
でも、思い出しました。
これからまじめに、ときどき、書きます。



先ほど、ココちゃんというセキセイインコが、
私の手の中で死んでゆきました。
2006,6,1,10:20

本当に、かわいく美しい子でした。
昨日から急に様子がおかしくなり、立てなくなったのです。
羽を乱しうずくまったまま、息も荒い状態を見て、
今日中に死んでしまうだろうと直感しました。
時間の許す限り掌で見守ろうと。

死ぬ瞬間は静かでした。
心臓の鼓動が無くなって気づきました。

つい10日ほど前にも、
仲良しだった「ますちゃん」が天国へ旅立ったばかり。
その後から、実はココの元気がなくなりました。

小さな小さな鳥でも、小さな心臓があり、生きている。
人間も、像だって、カメだって、
同じように、生を受け、やがて死を迎える。

今は…、
私に安らぎをたくさんくれたココちゃんに、
感謝の気持ちで一杯です。

外では、ウグイスが一羽、美しい声を響かせています。

お役所2006年06月08日 14時52分46秒

このごろ、お役所のえらい方々もパート勤めだそうな…。

だからなのか、
もともと持っているお役人の事なかれ主義の体質に、
ますます拍車をかけているような気がする。

世間(メディア)がいいと言うと、飛びつく。
そうでないと、見向きもしない。

もちろん、私なりに、
お役所に働く方々の立場の難しさはよく分かっているつもりです。
思想に偏りがあったり、冒険が許されない職場の空気。

でも、これが文化芸術方面に至ると、
ひとこと言いたくなってしまいます。

保身と事なかれの中では、新しいものは何も生まれません。
冒険と、ある種の思想性・考え方は必要なのです。

自分の目と耳と感性で見、考えることをしないから、
おかしな方を芸術家と間違えたりするんじゃありませんか。

司会2006年06月19日 07時37分29秒

ステージと客席を仲良くさせるために心を砕きます。

ほとんどアドリブ。出たとこ勝負です。

拘束時間が多いです。

休み時間もないです。

食事もままならないです。

慣れないヒールで立ちっぱなしだったりして、疲れます。

その割に、存在すら意識されず、
ときとして報われない気持ちになります。

あくまでメインの人を盛り上げる役割。
決して自分が主役じゃありません。

名前もどこにも記されなかったりします。
自分でも必要と思わなければ、名乗らなかったりも、します。(苦笑)

「ただいま“司会者”から紹介がありました…」
とつなげられると、ちょっと寂しかったりします。

自分中心では決して回らない、司会の役割。

同業者=歌手の友人に、
「よく司会なんてやるね」と言われたことがあったっけ。

仕事仲間からは、「司会は表現活動じゃないでしょ」
と言われたこともあったっけ。

「ピンをとる人は司会なんかやっちゃダメだよ~」とも。

たしかに言われることはごもっとも、と思うけれど、
実は…言葉では表せない楽しさがあるのです。

とても「気づき」が多いのです。

司会の仕事はいろいろなことを教えてくれるのです。

メインのポジションに立っていると見えない世界がよく見えるのです。

変なプライドを捨てれば、ものすごく楽しいのですよ、実は。

「無名のまま司会者に徹する時間」が、
私を初心に帰らせ、何かを与えてくれている、と思うのです。

日にち薬2006年06月25日 21時58分32秒

「ひにちぐすり、だよね。」

励ましや慰めの言葉の代わりに、

こんな言葉をかけてもらったことがありました。

傷は「時の流れ」が自然に治してくれるって。

今思えば、ずいぶん傷だらけだったのですね、わたし。

ようやくこのごろ、内側にうずく痛みが癒えてきた気がします。

やはり、時間がかかりました。

でも、その分たくさんのことを知りました。

人のこころのありようが少しは理解できるようにも。

大切にすべき人の存在も。

心に着込んだ外套を脱ぐ爽やかさも。

わたしにとって、表現することの意味も。



裸足で、
素顔で、
心のキャンバスに、
声という絵の具を持って、
ひとすじの線を描きたいと、そう思っています。